やばいの多様性


なんで文字の大きさ変わるんだろ〜〜って思ったらコピペか直接入力かの違いっぽい

11月中に注文の品をでかす予定だったのにもう終わってしまって焦燥感でもうやばい

年賀状の準備もやばいので真面目に12月やばい

緊張の糸が切れてから自力で座れなくてずっと床の上だったので黙って反省会をしてた

個人的には何が欲しかったかというと支持と活動成果の発表、そんで外部からの認知度だったわけだけど

他人がせっかく積み上げて作った空間を一瞬でぶち壊して自分たちの空間にするの、そういう力って本当天才だと思う

要らない

要らない〜〜〜〜!!!!!!!

ほんと

自分たちが楽しいと思うことをその他大勢に押し付けるポジティブシンキングの強さ

その他大勢の人の為の空間を自分たちの居場所にするパワーの強さ

やばい

と思いながら朝方マックに行ってフライドポテトを頼もうと思ったら朝はフライドポテトはやってなかった

ポテトといえば私は野菜に例えるとじゃがいもらしい

丸くてゴツゴツしてるってことなのかダッセー田舎者なのか両者なのか

そもそも野菜に例えられたことが今まで生きてきてなかったのでそもそもなんで野菜なのか戸惑いを隠せない

唯一野菜っぽいというなら一時期の私のあだ名がチンゲルンバだったくらい(ちんげん菜)

チンゲルンバってなんだ、やばい

髪なんで長くしないの?と言われてそれもそうだよな〜どんなだっけ〜〜って昔の写真見てみたらもう絶句

毛先パサパサのスカスカで前髪ベッタリっていう最悪なのしかなかったのでただ伸ばしてるだけの髪ほど汚いものは無いと思いました、燃やそう

先日父に我が家の唯一の一眼をタンスから借りました

ウン十年前くらいのなので乾電池式のフィルム式で聞いたことがないメーカーだけど動いてくれるといいな

🐵🐵🐵🐵



前に「お父さんとお母さんが別の人と恋愛をしたらどうする?」と親から聞かれたことがあって


そうなったらもう親じゃないただの男と女だから二度と私の親だなんて名乗って欲しくないって返したことをふと思い出した


汚いと思うからだろうな、なんか


背徳感に浸りながらの雄だの雌だののやり取りがとてつもなく汚いと思う


自分に、もしくは相手に子供がいる状況に興奮してるんだよ、興奮材料のひとつ、それってもう親じゃないじゃん


子供からしてみたら気持ち悪い以外の何物でもないんだよね


「俺の精子かわかんないし」とか「私の腹から出てきただけ」だとかさ


マ〜〜〜〜その通りなんだから仕方ないけど


その年代にいま自分が差し掛かっているところだから強く思うんだろうか


気持ち悪い感覚なんだよね


「恋愛しないでどうやって生きてられるの?」ってこれまで人生で2回言われたけど


じゃあ常に雄か雌のどちらかの性対象がベッドの中で側にいないと心身不安定になってしまうのか教えてほしいな


たぶん共感も理解もできないけど理由があるなら知りたいよね、一方的に私がマイノリティー扱いされる理由


こういうのはモテないブスの僻み妬み嫉み〜〜って思われるんだ、まあ合ってるから


そういう人達は結局自分が一番サイコーだから自分以外ブスだと思って生きてるしなんならそのお気に入りの性対象のこともブスだと思ってるから


だからまあ合ってるでしょ


私は突飛するほど自己肯定的な思想が強いほうではないと思うんだけど


あ〜〜でもそうなのかな、結局私も正しくなりたいのかな


完璧主義で、今更できる自分を壊せなくて、それを察してほしくて、でも察してほしくなくて〜〜って


私が違うって言ってもさ周りから見た私がそうならきっと私ってそんな人間なんだな


雄だの雌だの言ってる奴が一番まともじゃないんかーーーーい


ガラピシャ



メモに書いてあったやつを供養する


みんなが言わないなら私が言おうと思った。


「あなたの言葉では誰も傷つかないし何も変わらないから安心して」って言われたけれど私はみんなの言葉で傷ついて眠れなくなったりする。

もっと言えば自律神経を乱して無排卵月経症を起こし生理がこなくなりPMSは悪化し肌は思春期の子供みたいに荒れて極端なドライアイになり視界は安定せず耳鳴りは増し胸骨の辺りの神経痛が増しいつも飲んでいるはずの薬の副作用に過敏に反応し一日の殆どを横になっていないと辛いほど私の身体はボロボロになる。アホらしいと思うが私が一生懸命気を紛らわそうとしても身体は正直に抵抗してくる。私の身体は理性や思い込みでは歯止めが効かない。だからできることなら人間関係もスムーズかつ良好に、自分に害のない空間作りをしていかなければならない。

あえて自虐することで「そんなことないよあなたは素晴らしい人間だよ」って言ってもらって可哀想な自分に酔いたいんでしょって言われたらゼロじゃないんだろうけどそれでも私は今ここに居ていいのか聞きたいし肯定されたくない人間ってそもそもいないじゃんってことに気がついた。
ゲーテとかアドラーは「なるべくしてなっている」みたいなよくそんな感じのことを言う。あの人に嫌われているのはそもそもあなたが嫌っていてその状況を自分で作り上げてるっていう心理学の話。その通りだと実感するし現に私は私が一番嫌いなので私の中に踏み込んできた私に関心の高い人間からは最終的に嫌われることに成り立っている。当たってる。私は可哀想な私を作っている。じゃあそんな風にしか生きれない私はやっぱり痛々しくて子供じみていていつまでも成長のしない後退したままの自分に酔って悦に浸ってるのか。はたから見た私はそうだ。だから私は私が嫌い。好きになれない。そんな大嫌いな私が私の大好きな人達の近くにいて、自分の嫌いな人が自分の大好きな人達の近くに居るんだよ、「これでいいの?大丈夫?無理してない??」って聞いたらおかしいのかな。

いつだったかカウンセリングに抵抗を感じなくなってきた頃A4くらいの紙を渡されて「ここにリンゴの木を書いて」と言われた。しばらく固まって、考えて、私は紙の真ん中に小さく木を書いて均等に3つバランスよく実がついたリンゴを書いた。それが一番記憶に古い露骨に「測られた」と実感したこと。カウンセリングの帰り廊下で母親に私はわざと紙の真ん中に小さく木を書いて均等に3つバランスよく実がついたリンゴを書いたと言った。たぶん自己評価とかの強さか何かを測るんだと思う、とも付け足して。母親はなぜかそれをいつまでも覚えていて、私もそれが忘れられない。なぜそれが一番ショックだったのか。事前に私が「絵を書くのが好き」と打ち明けたら「じゃあ私にも絵を描いて欲しいの」と言われて紙を渡されたからだ。カウンセラーは私の絵が見たかったんじゃない、私の特技で好きなことが見たかったんじゃない、私のだいたいの測定値が見たかったのだ。私は「みんなと同じ」になりたい訳だけどそれから他人に私を測られるのが大嫌いになった。

どんな音楽を聞くの?と聞かれるととてつもなく困る。
オペラもクラシックもロックもポップスもラップもダンスミュージックもEDMもアイドルも歌謡曲もイギリス民謡もメジャーもインディーズも洋楽も邦楽もアニソンも映画のサントラも全部聞く。全部が好きだ。なぜならその中でも好きなものしか聞かないから。その曲についてはいくらでも好きなところを話せるけれどその曲が属する音楽ジャンル自体を語りたいとはあまり思ったことがない。例えばロックの神様とかについて大物歌手が対談している番組は意味があるのかなとか思ってしまう。あちこち知っていて、あちこちが好き。目移りが激しいだけかもしれないし飽きっぽいだけだとも思うけれどそのジャンルにカテゴリーについて他人の意見はあまり要らないしそれにかける自分の時間も要らない。好き、だからきいてる。追求はあまりしたことがない。音楽以外にも同じで私はそこそこ普通の人よりも手先が器用だ。工芸手芸裁縫料理家事子守り犬猫の世話やらがそこそこできてしまう。最も好きだからというのもあるし決して上手いというものでもないのだけれど、できるものの種類が多くなると私は「なんでもできる子」に近づいていく。

「なんでもできる子」は手先が器用だ、そして日常会話もそつなくこなして人の応対への姿勢も丁寧。そこで何よりも大事なのは何よりも勉強ができるという要素。私はその勉強ができるという要素がとてもひもじく、できれば一生触らずに通って生きたい。勉強に必要なのは忍耐力と向上心、努力、そして自ら向かい合う姿勢。自分自身の感情にも向き合えず好きな音楽はバラバラで統一性が無く特に一つのことに常に熱くこだわり続けるなんてできない私が一番苦痛で仕方がないことがこの勉強。一番大事なことができていない人間が自分自身に強い自信を持って「他人に流されないように生きていこう!」だなんてできる術があるなら見せて欲しい。「なんでもできる子」として見られた私は自らボロを高々と掲げなくとも勝手に勘違いされて勝手に測られて勝手に手離される。ボロは初めから他人に見えるところにあるしボロの説明は何度も繰り返していても。

私は私だけの人生だし私だけのものだから私としてしか生きられないが私の人生は相当厳しいので「みんなと同じ」になりたいのだ。そうすればみんなと同じで傷つかないし夜も眠れるし期待を込めた視線を集めることも極端にがっかりされることもなくとても簡単な生きれるだろう。だから「みんなと同じ」になりたい。


好きなことが難しい

この間


「どうやったらあなたが幸せであなたらしく生きれるだろうね」って

私は私の人生でしか生きられないのだけれど私が幸せで私らしく生きる方法っていうのは一般社会から大きく外れることであって前例が全く無いんだ

できることならみんなと同じ人生のターニングポイントを通って肩を並べて生きていきたい

だってその方法のほうがずっと簡単だよ誰からも拒絶も非難もされない

学生、サラリーマン、アルバイトパート、自営業どれも自分がそれぞれの社会に属してて私はその中でも最底辺の学生っていうカーストにまだ属させてもらっているわけで

それが無くなったら私どうやって社会から受け入れてもらえるんだろうって自分がその学生の肩書きに甘えてるのはすごい自覚しているから尚更そう思う

「絶対的に揺らがない好きなことは無いの?」って言われて

早い人はもうとっくに見つけてるんだけど私はどうやったら見つけられるんだろう色々やってみなければ行動しなければ見つかりっこ無いんだってことはわかってるんだけど

それを人生の軸にしていくことって難しい

難しい〜〜ああ〜〜〜〜

😇



なんでTwitterとかやってるのにわざわざブログ作ってんだよって思うよね


そもそもブログ自体が化石みたいなものだしポエミーでめっちゃ痛いし自己顕示欲の塊って感じでオエーーって思うよね

Twitterだとタイムラインっていうものがあってそこに私のウダウダした鬱々しいツイートが友達とかの面白くて明るいツイートの中に混ざってるのを見ると「うわあ…」って自分でも感じて

でも私は自分の口からは吐き出すことが難しくてああ〜〜今日言えなかった〜〜って思ったことを書きたいしできれば私の考えとして並べたいし

でもそもそも自分自身汚いものが嫌いだからそんなツイートがタイムラインに並んでるの見るとやっぱり「うわあ…」って感じて申し訳なくなって

じゃあどっかに秘密基地みたいなの作ってそこに汚い売れ残りの私をキラキラした所から隔離して置いておこうって考えてブログ作りました

かといってクソポエムな鬱ツイートしないで済むか?って言われたらごめんなさい自信ないんだけど

もっといい方法とかあるんだと思うんだけど今のところこれしか思いつかなくって

日記帳とかチラシの裏に書いとけよって思うけどそういうのよく無くしちゃって

考えたこと書く前に日記帳探してる間に忘れちゃって悶々とした気持ちだけ残っちゃってダメなんだな

その時思ったことを忘れて自分の考えをなあなあにしてずっと生きてきたらこんな風になってしまったから

後で感情とかそのときの出来事を落ち着いたときに客観的に私という人間のことを見てまた考えることもしなければずっと平行線のままなんじゃないかなって

「わざとネガティヴなことを目につく所で言って気を引きたいんでしょ、そんな可哀想な自分に酔ってるんでしょ」って言われるのもそう見えるならゼロではないんだろうけどさ

私いい加減自分のこと考えなきゃ知らなきゃいけなくて色々頑張らなくちゃいけないのでそれにはこういうのが必要なんだって思った

苦手なことって言わなきゃわかってもらえないよね、言ってもわかってもらえないんだけどさ

誰も見てないかもしれないし誰か見てるかもしれないけれど

私と自分を比べて「わははなんだこいつ痛え〜〜」って思って明日笑ってもらってもいいし「これが自己顕示欲の成れの果てか…」とか受け取ってもらってもいい

けどなんだかどこかで私のことを見てもらいたいっていう感覚があって、この感覚誰でもあると思うんだけど

そりゃ痛いよね自己顕示欲の塊SNS依存症メンヘラあといろいろ

でも私として生きてみたいの、もうちょっとだけ

だからね、よろしくお願いします

エビバデポッキー😇